『とやま元祖しらべ』 は明治・大正期の3つの新聞連載を集めたものだが、 《侠客》が出てくる。 自転車やパン屋のような事物の起源を尋ねる連載に、 侠客がなぜ取り上げられるのか。
明治44年 (1911) 高岡新報が取材したのは万延元年生まれの山田藤二郎。 「えらく出る奴は片端から殴り倒して爪の垢ほども勝手な熱は吐かせ」 ず、 「侠客仲間では全国に名を響かせ」 と記す。 高岡には幕末に有名な 「大長」 という親分がいた。 その跡目を継いだ饅頭屋が死んだのが明治30年で、 この山田屋が 「博徒の親分」 となったのがその頃というから、 彼はさらに跡目を継いだ親分というに過ぎない。 それなのに元祖とするのは 「(親分となった後は) 種々なる混雑も殺伐なことも演ぜずに鎮撫される。 その成身 (ひとな) りを慕うてわざわざ他国から子分の盃をもらいに来る」 侠客というに恥じぬ人物となったからということらしい。 今は静かに余生を暮らしていると記事は伝える。 江戸期からの 男だてという生き方が、 明治の人々にも尊敬されているのが分かる。 それが消えて行くのを惜しんでいる、 私はこの記事が好きだ。
強きを挫き弱きを助けるという侠客の人なりは、 庶民が支配者に求めるものだ。 最新の本によれば、 江戸期の武士という存在はたしかにそんな倫理を体現していたようだ。 驚いた。 武士や侠客のことを権力や暴力を振り回す存在としか見ていなかったが、 それは一側面に過ぎないのであった。
例の9・11前まで、 私は世の中は少しずつ良くなっていくものと思っていた。 だが、 その後、 戦争は次々と起きた。 進歩史観を盲信する自分に気付いた。 江戸期にも良い生き方があった、 いや、 古い時代にこそ美しい範型があった、 そう認められて、 ようやく歴史は相対化できるのだろう。 (2005年10月1日 勝山敏一)
新刊 『孤村のともし火』 は65年も前の1941年、 飛騨山中の村々を診療に廻った医師の探訪記。 草刈りから帰ったばかりの老爺が二年ぶりに会った医師に向かって 「おお、 よく来られた。 あなたさまにまた会えてありがたい。 なんまんだぶ、 なんまんだぶ」 と念仏を唱え合掌する。
一昨年刊の寺﨑満雄著 『さよなら、 桂』 には、 その村を1936年、 明治大学の教授が民俗調査に訪れた話が出ている。 何につけ念仏を唱えるのは老人だけだが、 若者も説教はよく聞くという。 印象深いのは若者が教授に 「死んで行く先はどこか」 と尋ねるシーン。 教授は《多少とも学問に携わっているもの》として《当惑もし気恥ずかしく思った》とだけ記す。 おそらく答えられなかったのであろう。
教授には若者の 「知」 をひらこうとして思いとどまった気配がある。 啓蒙行為そのものが恥ずかしかったのか。 近代化というのは、 人々の知をひらくことで社会を成熟させることだった。 相手が本当に無知かと云えば、 そうでないことは自ずと判る。 成熟するというのは、 相手への尊厳に見合う恥じらいを生むものなのに違いない。
成熟は達成されつつあるだろうか。 軍隊に割かれる予算が少しずつ小さくなり、 やがて戦争がなくなる―こういうプロセスを成熟の一面というのに私は同意するが、 どこにその片鱗があろう。 知がうずたかく積み上げられるだけだ。 皆どうしようもない矛盾を抱え、 どうやって少しでも正気を保って生きていくか悩んでいる。
冒頭の老爺は九十歳でなお働いている。 念仏を無心に唱える、 これは肉体を伴う知の在りようの一つなのかもしれない。 一つ一つの矛盾を肉体の混沌に戻すような、 矛盾を生きるというのはそういうことだと告げているような姿に見える。 なんまんだぶ。 (2006年5月1日 勝山敏一)
気晴らしに事務所を出て、 近くの広場 (縄文遺跡) へ向かった。 真っ青に晴れ渡った空に、 刷いたように絹雲が走っている。 広場の草原では少年と若い父親が二人野球に興じていた。 一人が投げ、 一人がバットを振る。 当たれば一塁 (!) まで走って元の処まで帰る。 ピッチャーに替わった少年が私に気付いて、 振り向いた。 父親が早く投げろと急かしている。 心地良くて私は大きなベンチに寝転んだ。 目を閉じる。 瞼に、 すぐ真紅のカーテンが現れる。 それが揺らめき光る。
《ああっ、 …とれんよー》
草原にもつれる父と少年の声。 五体を大地に広げ、 空を見上げるだけで、 こんなにもたやすく幸福になれるのがいぶかしい。 先までの屈託は、 いろいろな社会問題について私に断言できることは何一つないことだった。 自分に嫌気が差していた。 それなのに、 今は我が身一つにかまける快楽の中で、 陶然と己の全てを容認している…。
《だめ、 だめッ……待ってー》
父子たちの声に耳朶を打たせ、 目を幾度か開けて空の青さを見つめると、 反動のように、 自分をそのまま肯定してはいけない、 いつも自分を何か大切なものに照らして恥じるというふうでなければ―そんな思いが立ち上がってくる。 だけど、 できない。 人は強くない、 そんなに強くない。 弱い人間でいいと誰もなぜ言わない? 「強くなくていい社会」 ってないのだろうか?
話は変わる。 山岳エッセイで著名な佐伯邦夫氏が、 辛辣な社会時評を小社から。 序文に 「アクはエグイけど、 そこがまた旨さだとされる。 アク抜きを厳重にやれば、 そのものの持つ固有の旨さもまた、 淡いものになってしまう」 「文章は格闘技」 とある。 省略法をこれほど駆使して意を達せられるのは見事。 文章を考え抜いた人が、 ここにいる―打たれてこれを上梓した。 (2006年11月1日 勝山敏一)
「希望は、 戦争。」 は31歳フリーターという青年が 『論座』 に投稿したエッセイの副題。 卒業時が就職氷河期で入りたい会社に入れなかった世代だが、 政策にも見捨てられてフリーターのままだ、 希望を持てない社会がこのまま続くなら、 社会を流動化してチャンスをもたらすかもしれない戦争に期待する若者が増えるという論旨だ。
平和な社会をと望むことが、 今の水準を落とさずに生活が続けられるよう望むことと同義になっているという指摘は鋭かった。 「『丸山真男』 をひっぱたきたい」 というタイトルにも、 うなった。 若者にワークシェアリングで職を譲ろうとせず、 たっぷり味わった豊かさをなお持ち続けようとする先行世代をひっぱたきたいというのにはリアリティがあった。
私は高卒の1961年、 岩戸景気でうるおう東京の大手電機メーカー研究所に採用された、 恵まれた先行世代の一人だ。 鍬を握っていた農家の倅が液体窒素をビーカーに注ぐ研究助手となった。 すがる母を振り切り田圃も捨てて上京した私のエゴは一年でピリオドを打たされた (母の病気)。
今夏、 上京の折、 元の職場を訪ねてみた。 研究所を囲む森は四六年を経て恐ろしいほど分厚く、 圧倒的な闇を作っていた。 門前にたたずんで、 自分はとてつもない回り道をしてきたのではという思いが込み上げる。 故郷に戻って高校の実習助手に雇われ、 転職の階段を探して苦しかった十数年…。 新人を労働社会に迎え入れる大きなシステムから一度はずれると、 道に戻れないもの。 詩を書いているというだけで目指した宣伝コピーのライター職に、 なかなか就けずにいた。 何が何でも言葉に繋がる職に就きたかった。 「希望は、 ことば」 と呟き続けた回り道のような道であった。 研究所の高塀に昼顔がぽっかり咲いていた。 (2007年8月1日 勝山敏一)
ベーシック・インカムについて語る人はまだ多くない。 全ての人に無条件で基本所得を配分しようという構想。 病気の人にも老いた人にも口のきけぬ赤ん坊にも、 全ての人に一ヵ月ん万円を支給していく。 財源プランの一つはこう。 現在ある多くの福祉は、 支給対象が基準を満たすかチェックする必要があり膨大な数の公務員がそれに当たっているが、 無条件であればそれは不要、 その公務員費を回す。
この構想を知ったのはワーキングプアの存在に衝撃を受けた昨年。 私には社会改革の素晴らしい希望と目された。 ドイツなどでは真剣な話題になっているようだから、 すぐに日本でもと思ったが、 それから熱い話題にならない。 私は何か見誤ったのだろうか。
基本所得を全ての人に支給するから、 働かなくても何とか食べていけるようになるわけだけれど、 働かざるもの食うべからずという価値観はそんなに圧倒的なのだろうか―自分はそんなにお金が欲しいわけじゃない、 会社勤めしないでいきたいという人も結構いるのではと思ったけれど。
『「負け組」 の哲学』 の小泉義之氏は指摘する。 「いわゆる社会的弱者を資源として膨大な産業と専門家権力を作り出してしまった」 資本主義世界の支配層は、 権益を掘り崩される危機感をこの構想に抱いていると。 牽制したい者が、 うまい話に気をつけろとあちこち触れているのかもしれない。
資本主義のおかげで特定の誰かを飯の種にしないで済んでいると私は喜んできた。 それ故だろうか、 無能無力の人さえ含めて全ての人はお互い、 飯の種となり合っているとこれまでたびたび感じてきた。 この感じは構想とどこかで響き合っている気がする。 どこをどう回って、 この共鳴は生まれてくるのか。 シンプルだけど奥が深い構想―理解途上の私。 (2008年6月1日 勝山敏一)
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大正七年(一九一八)八月七日の高岡新報は、富山県水橋町で起きた女一揆を受け、隣の滑川町でも昨夕八時ごろ「老若男女」二千名の大集団が米屋の前に集結し「生活難を絶叫」したと伝えた。全国に米騒動の起きるきっかけになったといわれる歴史的な大記事だが、「今夜は男の一揆が起こる」という噂から書き始めている。新聞が水橋町の騒動を女一揆と表現したことへの反応だろう。男の、もっと凶暴な一揆になる―民衆はそう見越している。
では、米騒動はなぜ女一揆として始まるのか。富山から飛び火して名古屋では五日後に起こるが、女は顔を見せず男の一揆に終始している。女一揆には地域性があるのではないか―。
多くの女一揆は北前船の立ち寄る日本海側の港、米を船積みする港町で起きている。管見で史料の最古は安政五年(一八五八)に金沢宮腰港の銭屋五兵衛宅を襲ったものだ。
それより先の天明七年(一七八七)寺泊町の史料が驚くべきことを教えてくれる。米価暴騰のとき、米を移出したい船主が、移出されたくない細民たちと町役人を通じて話し合い、米穀の何%かを細民救済に置いていくという仕法が広域の港でいっせいに発動される。損失を米値に転嫁でき、国境を越えていく者から徴するというのはアイデアである。移出を止めるべく騒げば施米にありつけるという経験をつんで、やがて女が騒ぎの主役に躍り出る。一揆は男なら重罪だが、女なら軽い、そういう見込みをもって恐らく女一揆は始まった。今さら女性も主体者と認めるわけにはいかず、藩主のショックは大きかっただろう。かくして日本海側の各港で仕法と女一揆はセットになっていく―私の仮説。
三年前、フランスが提案した「国際連帯税」は空港の旅客に課税してアフリカのエイズ対策などにあてるもの。先の仕法と骨組が酷似することに、どう言葉を継げばいいか…。 (2009年4月1日 勝山敏一)
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