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No.25 零細出版社を続けられる理由

小社は、 と言ってはいけないか。 編集部では私だけかもしれないが、 「記憶」 というものにこだわっている。 『村の記憶』 に続いて 『猟の記憶』 を発刊した。
ある猟師がフッと言う。 「クマを獲ったら、 腹を裂き、 顔を突っ込んで生き血を飲んだものだ」 と。 なぜ、 そうしたか、 は語らない。 読んだ私は恐ろしい感じがする。 著者の説明は 「魂振り」 だ。 辞書には 「活力を失った魂を振り動かして活力を再生すること」 とある。 飢えてもいないのに生物を殺さねばならない猟師 (それは猟師だけではない) が、 何物かから正当化を迫られて行うギリギリの儀式…。 人は己の魂のために他の生物を殺したくなることがある?そうかも知れない。 が、 クマの腹に猟師が顔を突っ込むのは、 クマの魂を振り動かすためかも知れない。 己のためではなく、 クマの命を蘇らせようとして…。 あるいは、 クマよ、 お前を殺してしまったが、 せめて俺の中で生きてくれ、 と猟師は叫びたかったのかも知れない。 魂振りという説明だけでは訳の解らない何かが 「人間」 にはある。  私が記憶を辿りたいのは、 そういう 「訳の解らない行為」 に行き当たるためである。 「近代」 というのは、 そういう 「訳の解らないもの」 を排除する時代だった。 それは 「人間」 を見えにくくした。 そんなものは見えなくても生きられる、 そう信じ込んだのが近代という時代だった。 しかし、 見えなくなった私は、 果たして生きていると言えるのだろうか。
8月に出す 『ある近代産婆の物語』 は、 その近代の形成を地域につぶさに見た物語。 「トウナイ」 と呼ばれる北陸の被差別者たちの職業の一つに助産職が挙げられることも本書は初めて詳細に語る。 旧来の産婆さんと国家免許を取った産婆さんとの交替ぶりをダイナミックに描く本書を読むと、 国家というものがどんな欲望を抱き続けて来たかが鮮明に解る。 が、 注意深い読者なら人間の抱える闇の深さにも気づくだろう。
訳の解らない事柄は今でも理解できない。 理解できないから魂が揺さぶられる。 「伝達に先立つような知的理解というものはない。 伝達こそ知そのものなのだ」 という映画 『ショアー』 の監督ランズマン氏の言葉を反芻しながら思う。 書物に顔を突っ込んで、 生き血を飲むかのように 「読まれる」 本を出したい、 と。 そういう訳の解らない衝動でもなければ、 零細出版社なんか続けられない…。 (1997年7月2日 勝山敏一)