富山の出版社 本づくりなら 桂書房

富山の小さな出版社「桂書房」。富山での自費出版、本づくりならお任せください。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第20回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第20回 墓石のリサイクルは当たり前

 織田信長の一代記『信長公記』によれば、永禄12年(1569)旧二条城を築城するにあたり、石垣の石材を切り出す手間を省くため、周囲の寺院から石仏を引っ張り出し、石材の代用品としたことが記載されている。発掘調査の結果、多数の石仏が出土し、信長公記の記述が正しかったことが判明した。さらに信長の居城安土城の大手道の敷石にも墓石や石仏が使用されている。さすがに筆者は踏まなかったが、表面はかなり摩耗していることから、多くの人々(恐らく武士)が踏んずけていたことが想定される。
 なんともバチ当たりな奴らだが、当時としては信長に限らず、ごく当たり前な行為だった。善政家で知られる豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の居城大和郡山城(奈良県)では、驚くほど多くの石仏が石垣の石材として使用されている。
 当時の奈良・京都では、そのへんに墓石・石仏が多数ころがっていたはずである。利用できるものは全て利用する、という極めて合理的な思想といえる。
 この考え方は、なにも武士(為政者)だけではない。当事者ともいえる寺院も実施していたのである。和歌山県の根来寺では、井戸の内側を固める石垣の石材に墓石を使用している。墓石を使用した井戸の水など、筆者はとても気持ち悪くて飲めないが、メインの井戸でもあり、多くの僧侶が飲んでいたことであろう。仏に使える僧侶としてはあるまじき行為だが、ホンネとタテマエを使い分けていた証拠なのかもしれない。
 富山県でも墓石はリサイクルしていた。富山城の石垣にも墓石を使用している。さらに昭和50年代に発掘調査が実施された白鳥城(富山市)では、建物の礎石に墓石を使用していることが判明している。墓石は五輪塔と呼ばれる石造物で、最下部の地輪はサイコロのような形をしているので、白鳥城の礎石礎石には最適の石材といえる。もはや墓石のリサイクルは全国共通、当たり前だったのである。面白いのは富山市内の寺院で、失敗した石仏の裏面に再度石仏を刻んでいるケースもある。これもリサイクルの一例といえるが、その石仏作成の依頼主は、内心穏やかではなかったはずである。
 当時の人々にとって神仏はもっと身近な存在であり、死者を弔う墓石・石仏を再利用することについては、合理的でドライな感覚を持っていたのかもしれない。イヤイハ恐ルベシ。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第19回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第19回 山城の建物はほぼ不明

 現在中世城郭の復元図と称する図面が氾濫している。カラーでリアルなため、好評を得ているようだ。しかし、ほとんどが根拠皆無の空想図で、発掘調査もしていないのに、なぜこのような建物が建っていたと推定できるのか、全く理解に苦しむ。たとえ発掘をしていても、発掘結果に基づかない図面すらあり、さらにそれを地元教育委員会が後押ししているのだから始末が悪い。地元活性化のため、ある程度はやむを得ないと思うが、間違った概念を植え付ける恐れがあり、もろ手を挙げて歓迎する気になれない。
 それでは、中世の山城にはどのような建物が立っていたのであろうか。まず現存する建物は存在せず、確実な絵画史料も存在していないため、ほぼ不明なのが実情である。有名な安土城天守閣でさえ復元案が多数あり、どれも「イマイチ」な内容となっている。
 発掘調査をすれば判明するのか、と聞かれるが、これもほとんど不明のままである。発掘により検出するのは柱穴や礎石だけで、これでは平面的な形状や大きさは判明するが、どのような上屋が立っていたのか、わかるはずがない。もっとも瓦や土塀も出土しないので、屋根は藁ぶきか板葺き、壁は板壁と推定され、極めて簡素な小屋程度が想定されるのである。
 簡素な小屋とはいうものの、山城にとって重要な小屋だったと考えられる。比較的広範囲に発掘調査が実施された白鳥城(富山市)では、礎石と雨溝が検出された。大きさから小屋程度の建物と考えられたが、問題は四方を巡る雨溝である。礎石は柱から土中の湿気が小屋内部に浸入するのを防止し、雨溝も湿気が小屋内部に浸入するのを防ぐ対策だったと考えられる。つまり小屋は極端に湿気を嫌う品物を保管する倉庫だったと考えられるのである。湿気を嫌う品物、それは火縄と火薬と考えられ、火縄銃を保管する倉庫だったのである。城兵達の命運を左右する重要な倉庫だったといえよう。
 上杉謙信の書状により、宮崎城(朝日町)に曲輪の周囲に塀(恐らく板塀)が存在していたことが判明している。謙信の書状には居住施設の言及はない。恐らく粗末な小屋程度だったのであろう。これは越前一向一揆が籠城した木ノ芽峠城塞群に、雨漏りする小屋しか存在していなかったことからも推定できる。山城に豪華な天守閣や御殿を想定してはならない。

宮崎城(朝日町)

佐伯哲也のお城てくてく物語 第18回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第18回 山城の飲料水確保

 飲料水が枯渇すれば落城する、と言われているように山城において飲料水は貴重だった。従って山城には飲料水にまつわる様々な伝承が残る。
 一番多い伝承は、恩賞目当てに飲料水の水源を敵軍に密告する老婆の話であろう。松倉城(魚津市)が上杉謙信の猛攻を平然と防いでいるのは、尾根沿いに木樋を用いて城内に飲料水を通水しているからだ、と密告してしまう。謙信は直ちに水源を奪取し、松倉城は落城したと伝わる。
 山城は松倉城に限らず峻険な山頂に築かれているケースが多い。当時の未熟な土木技術で、どのようにして多数の谷や沢を越えて城内に引水したのか首をかしげてしまうことが多い。しかし、鎌刃城(滋賀県)のように、五百m上流の沢から現在も引水した引水施設の一部が現存している城郭も存在している。現代の我々の常識をはるかに超越した名人芸を駆使して引水していたのかもしれない。
 かつて北陸も寒冷地で、各地に氷室が存在していた。つまり保存方法によっては、真夏も飲料水を氷という手法で貯水することができたのである。松倉城内には、天池と呼ばれる長径24mの巨大な竪穴が残る。ひょっとしたら雪を貯めていた天然の氷室だったのかもしれない。
 飲料水施設で最もポピュラーなのが、井戸であろう。山城には井戸跡と称する竪穴が多数残るが、ほとんどは水は溜まっていない。こんな高所で水が湧いていたのであろうか、首をかしげたくなることが多い。しかしかつての地下水位は我々が想像するよりも遥かに高位だったと考えられる。大道城(富山市)は標高が630mもあり、富山県内の山城でも屈指の標高を誇る。城内の井戸跡と称する竪穴に現在は水は溜まっていないが、昭和40年ころまでイモリが棲んでいたと古老たちは伝える。つまり一年中水が溜まっていたと推定されるのである。現在枯渇している井戸もかつては水が溜まっていた可能性は高い。
 山城の井戸で、現在も清水がコンコンと湧き出ているのが、長沢城(富山市)である。この井戸は江戸時代から有名で、各書が書き伝える。内側を石で固めていることが要因の一つであろう。逆に山城には特異な存在で、城ではない可能性(寺院等の可能性)も視野に入れる必要性があろう。長沢城(富山市)の井戸

佐伯哲也のお城てくてく物語 第17回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第17回 戦国時代の情報伝達施設

 戦国時代、戦いを勝利に導くために、詳細な情報をより早く・正確に伝達することは、重要だったことは言うまでもない。とはいうものの、電話等の通信手段が無かった当時、「詳細な情報」は、書状を書いて相手に届けるしかなかった。しかし、これでは情報を伝達するのに長時間を要し、運が悪ければ書状が敵軍に盗まれる可能性も存在する。従って書状より情報量は著しく減少するが、より早く・正確に伝わる方法を戦国人は考えていた。
 富山県内の山城において、情報伝達施設名称の伝承が残るのは、管見の限り、鐘・狼煙である。また、文献史料で確認できるのは、篝火である。従って戦国人が使用していた情報伝達施設(方法)は、鐘・狼煙・篝火だったと考えられる。この中で比較的多く城跡に残っているのが「鐘突堂」(カネツキドウ)という地名である。恐らく山城から山城へ伝える情報伝達施設として最もポピュラーな施設だったのであろう。狼煙は夜間は使用できず、篝火は日中は見えにくかったと考えられる。天候に左右されず、一日中使用できた鐘が多く使用されたのも当然であろう。
 鐘使用の好例を挙げる。山田川(富山市)沿いの丘陵に、鐘突堂の地名を残す城が、数珠繋ぎのように存在している。山田川流域は、守護代神保氏の金城湯池で、主城富崎城(婦中町)を筆頭に、長沢城・下瀬砦・高山城・小島城が存在し、鐘突堂の地名を残す。3~4㎞の間隔で各城が存在していることから、当時の鐘の可聴範囲は4㎞程度だったと考えられる。リレー方式で鐘を突き、城から城へ情報を伝達したのであろう。伝承によれば、鐘突堂は山城の高所に立っていたという。従って寺の鐘のような重量物ではなく、持ち運び可能な半鐘のようなものだったと考えられよう。
富崎城の鐘突堂 この情報伝達施設、味方にも伝わるが、同時に敵軍にも伝わった。このため敵軍に悪用される可能性も多分にあり、実際にそのようなケースも発生している。一例として、元亀3年(1572)6月15日夜中、上杉軍は白鳥城(富山県富山市)で到着の合図として篝火を上げた。これが運悪く敵軍の一向一揆の攻撃目標とされてしまい、一揆軍の猛攻に白鳥城は落城、上杉軍は全滅してしまう。やはり情報は味方だけにナイショで伝わるほうが良い、と思うのは筆者だけではあるまい。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第16回

カテゴリー:お城てくてく物語

 

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第16回 意外に早い城の完成日数

 よく聞かれる質問として、城の完成日数である。城は土木構造物であり、土木技術者でもある筆者も大いに興味が湧くところである。今回はこの質問に答えたい。
 大量の石垣・瓦や天守閣・殿舎建造物を必要とした近世城郭は、とにかく長期間の日数を必要とした。有名な豊臣大阪城(大阪府)が完成したのは、秀吉の死から約1年後の慶長4年(1599)春のことである。つまり築城から完成まで16年を要したのである。金沢城(石川県)が完成したのは2代目前田利長の時代で、27年の歳月を必要とした。高山城(岐阜県)は13年を要しており、完成したのは2代目金森可重の代である。つまり築城者の代では完成せず、次代までかかっていたのである。
 ここに常識を破った人物がいる。前田家二代利長である。高岡城(高岡市)本丸の工事は、通常だと380日間かかるのだが、わずか137日間で完成させている。これを可能にするには、約2万人の人夫を一日13時間、一日の休日もなく働かせて漸く完成するのである。異常なまでの利長の執念であり、隠居した利長が、依然として実権を握っていた証拠にもなろう。高岡城(高岡市)の水堀
 一方、臨時城郭であり、使い捨て城郭でもあった山城は、極めて短期間で完成している。上杉景勝が築城した荒戸城(新潟県)は二週間で完成していることが、一時史料により判明している。この他、朝倉軍が築城した長比城(滋賀県)も約10日間で完成している。
 天正12年(1584)有名な佐々成政の末森城攻めで、成政が本陣として使用した坪山砦に至っては、わずか3日間で完成させている。さすがに完璧な完成ではなく、各所に未施工部分が残っており、必要最小限の加工に留まっている。それが返って緊張した現場の臨場感が伝わってくる。本陣の施工は後回しにして、一刻も早く末森城を落としたい、という成政の悲痛にも似た思いがヒシヒシと伝わってくるようだ。
 このように山城(居城等拠点城郭は除く)は、10日間程度で完成していることが判明し、恐らく大抵の山城は1ヶ月以内で完成していたのであろう。
 ただし、そこに存在していた建物は極めて簡素で小屋程度でしかなかった。使い捨ての城に御殿を建てる必要性が無いからである。