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No.42 恥じらいのある知はどこへ

新刊 『孤村のともし火』 は65年も前の1941年、 飛騨山中の村々を診療に廻った医師の探訪記。 草刈りから帰ったばかりの老爺が二年ぶりに会った医師に向かって 「おお、 よく来られた。 あなたさまにまた会えてありがたい。 なんまんだぶ、 なんまんだぶ」 と念仏を唱え合掌する。
一昨年刊の寺﨑満雄著 『さよなら、 桂』 には、 その村を1936年、 明治大学の教授が民俗調査に訪れた話が出ている。 何につけ念仏を唱えるのは老人だけだが、 若者も説教はよく聞くという。 印象深いのは若者が教授に 「死んで行く先はどこか」 と尋ねるシーン。 教授は《多少とも学問に携わっているもの》として《当惑もし気恥ずかしく思った》とだけ記す。 おそらく答えられなかったのであろう。
教授には若者の 「知」 をひらこうとして思いとどまった気配がある。 啓蒙行為そのものが恥ずかしかったのか。 近代化というのは、 人々の知をひらくことで社会を成熟させることだった。 相手が本当に無知かと云えば、 そうでないことは自ずと判る。 成熟するというのは、 相手への尊厳に見合う恥じらいを生むものなのに違いない。
成熟は達成されつつあるだろうか。 軍隊に割かれる予算が少しずつ小さくなり、 やがて戦争がなくなる―こういうプロセスを成熟の一面というのに私は同意するが、 どこにその片鱗があろう。 知がうずたかく積み上げられるだけだ。 皆どうしようもない矛盾を抱え、 どうやって少しでも正気を保って生きていくか悩んでいる。
冒頭の老爺は九十歳でなお働いている。 念仏を無心に唱える、 これは肉体を伴う知の在りようの一つなのかもしれない。 一つ一つの矛盾を肉体の混沌に戻すような、 矛盾を生きるというのはそういうことだと告げているような姿に見える。 なんまんだぶ。 (2006年5月1日 勝山敏一)