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No.50 お昼にしようけ

大干ばつに襲われたアフガンの人々がある日、村を捨て食を求めて徘徊を始めるのを目撃された医師の中村哲さんの言葉「飢えた人は寡黙だけれど、決して絶望的な眼はしていない」。
飢え人が都市へ向かって徘徊するのは、江戸期の富山町でもそうだった。文法学で著名な山田孝雄博士の父、天保飢饉の際に五歳だった方雄の証言。一八三七年三月、お椀ひとつを持って飢え人が城下に多数現れるについて、富山藩士だった二八歳の祖父は五歳児に「汝もこの様を見ておけ。施しの手伝いを」と命じ、毎朝、門口にくる飢え人に竹の杓一杯ずつ薄粥の施しを始めたという。子供も小さな大人として、生と死を正面から見つめさせられた。「余が家において三度の飯を粥とし三分一を減じ、その減せし米をもって水多なる粥を炊き」とあるから、非常時の武家の対応には規範があった。
ある朝、青ぶくれの弱々とした男が貧民とは見えない相応のお椀を差し出した。「粥一杓をいただき大慶の体、貧民の途切れた折ゆえ、別に母がいくらかの白米に恵まれしに、泪をながし有難かりし」、その年の秋、手作の野菜を持って礼に来たとある。粥の施行は四五十日にて済んだ、「何ゆえに済みしか訳を覚えず」と筆を措く。多くの難民は食糧のある都会にまで達し得なかったと暗示するのかもしれない。
3・11では被災直後から各所に相互扶助的な秩序が自生したという。そんな事例を世界的に紹介する『災害ユートピア』の著者は、他人とつながりたい、他人を助けたいという衝動はエゴイズムの欲望より深いことを示すものという。本当にそうならいいが……ゆっくりとヒバクしていくだけ、まともに死と向きあえない私に、NHKの朝ドラ「カーネーション」が印象的だった。一九四五年八月十五日の玉音放送を聴き、男たちは敗戦のショックのあまり叫び回るが、女主人公は呆然とした後「お昼にしようけ」とつぶやいて台所に向かう。命は自分でつないでいくという姿だった。
(2012年2月1日 勝山敏一)