富山の出版社 本づくりなら 桂書房

富山の小さな出版社「桂書房」。富山での自費出版、本づくりならお任せください。

過去の記事: 2015.7月

富山城ツアー

カテゴリー:その他

先日、懇意にしている観光バスの運転手さんから「日本百名城ツアー」の話を聞きました。

日本百名城とは、日本城郭協会が選定した城で、

北陸では「金沢城」「七尾城」「高岡城」「丸岡城」「一乗谷城」が選定されています。

そのツアーの方々は富山市で宿泊され

高岡城を経て七尾城、金沢城を廻られたのですが、

なぜか富山城は富山市郷土博物館も立ち寄って頂けなかったようです。

富山城だって、かつては富山藩十万石の城です。

実に残念ですね。

 

同じ話をあるお店でも聞きました。

今度長野からのお客さんを案内したいのだけど、どこを廻ればよいか見当もつかない。

「どうすれば良いの?」と。

 

しかしアイデアは無限にあるのですが。

出された地鮎を食べながらしばし談笑。

この鮎は神通川支流で生まれ育った鮎ですよ。

地鮎

 

結局、私が約一時間程、富山城近辺を案内する事になりました。

どこを廻るのか?

やはり富山をよく理解して頂くのが先決なので、

かつて市街を神通川が流れていたという事でしょうね。

船橋

かつての船橋と

この界隈の4軒の鱒寿し屋さんで寿しを食べ比べてもらいます。

 

大道城主に伝わった能面

カテゴリー:歴史探訪

桂書房では「大道城主に伝わった能面」について調べています。

高岡市にある称念寺には能面が伝来しています。

この能面は、古くは「修験と山田温泉」に関連するのではないかと仮説を立てています。

その経緯を纏めました。

称念寺の由緒ですが、山号は立鷹山(りょうおうざん)。

浄土真宗本願寺派(元は真言宗)。旧八尾町足谷に寺がありました。

古絵図(県立図書館蔵)には称念寺屋敷が残っています。

立山曼荼羅が伝来し立山信仰と関連が深いとされます。

 

この能面は江戸時代初期に打たれた面です。

製作 寛文7年(1667)江戸時代(富山藩が出来た頃)

作者 一色左京大夫義春です。

能面はいつの頃か「大道城主」から称念寺が貰ったとされています。

 

大道城とは旧八尾と旧山田村境にあった中世城郭です。

『婦負郡史』によれば,

「大道城主」との由緒を伝える「鈴木権ノ守」が旧山田村数納(sunou)に在住していました。

数納は現在は廃村となっています。

そして数納には、現在は砺波にある千光寺の故地であるとされます。

『山田村史』によれば、千光寺は戦国時代に砺波の現在地に移転したとされます。

数納の旧中村家の屋号は「寺」でここが「千光寺元屋敷」でした。

 

詳細は「廃村の記憶」(桂書房刊)を参照下さい。

 

では、なぜ数納に能面があったのでしょうか?

考えられることは江戸時代の初めまで数納で能が舞われていたのでしょう。

 

ところで山田温泉は金剛堂山の修験信仰と関連しているとされます。

近くには宿坊という村もあります。

修験者は金剛堂山に登る際、山田の宿坊を出て山田温泉で身を清め、禅定道を金剛堂山に至ったとされます。

この禅定道沿いに数納がありました。

 

ここからが推論ですが、

伝承から千光寺が数納にあったとして、

金剛堂山信仰と千光寺開祖法道上人の金剛摩尼の法力とは、なんらかの関連があったと思われます。

そして能は千光寺に伝承されてきたものと考えます。

千光寺移転後は大道城主であった鈴木家に伝承されてきたのではないでしょうか。

ご意見を頂きたいと思います。

 

石黒党と湯浅党

カテゴリー:その他

「石黒党と湯浅党」が昨日(7月21日)刊行されました。

この本は、紀伊では滅んだ湯浅一族が、医王山山麓でなぜ生き残っているのか?

という話です。

戦国時代にかけて越中の諸豪族はことごとく没落しました。

先祖伝来の書も灰となり城館跡のみが寂しく残っています。

その城館跡に由来が書かれていることがありますが、

そこには越中が負けて以降のことしか書いない事例を目にします。

実に悔しい思いをいくつもしました。

しかし実はたくましく生き百万石文化を生んでいたのです。

「となみ野」って凄いなと感動しています。

天下道

カテゴリー:歴史探訪

歴史はおもしろいです。

特に日本海交流史が面白いです。

 

日本海というのは内海です。

この内海を支配したのが太古の昔は「大国主の命」で、古代から中世にかけては安東氏だったのかはと考えます。

この安東氏は鎌倉以来、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えました。

十三湊以外の安東氏の遺跡としては、北海道・江差に近い上ノ国にある勝山城は空前のスケール。

また南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称し、築いたのが脇本城。

安東氏は、若狭の羽賀寺を再建し「日之本将軍」という称号を得ています。

 

私は数年かけて安東氏の遺跡を尋ねましたが、秋田県男鹿半島に築かれた脇本城に残る「天下道」には驚きました。

脇本集落横を通る市道がトンネルに入る手前から菅原神社に至る参道があり、神社脇を過ぎると城内に入ります。

この道を「天下道」と称すとの事です。

この「天下道」は船越方面から脇本集落を抜け、内館の脇本城内に入り船川・北浦方面に抜ける道で、つい最近まで生活道として使われていました。

 

SANYO DIGITAL CAMERA

秋田県 脇本城

この「安東氏探訪記」をブログに連載していきたいと思います。

 

鱒御猟

カテゴリー:その他

神通川は、かつては川魚の宝庫でした。

そして神通川に宮内庁の御猟場がありました。

これは大正8年5月17日の新聞記事です。

御猟記事

「鱒御猟開始」と書いてあります。

当時の写真も残っています。

岐阜の長良川は鵜飼で有名ですが、神通川は鱒漁で有名だったのでしょうか。

この頃、砺波の庄川では岐阜から鵜匠を呼んで鵜飼を企画しています。

庄川での鵜飼が事業として成り立とうとした頃、庄川に小牧ダムが建設されます。

そして大争議となっていきます。

しかしこの話はすっかり忘れられてしまいました。