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カテゴリー: 歴史探訪

安王丸

カテゴリー:歴史探訪

天保8年、富山城内から古碑が発掘された。
この古碑には中央に『安王丸』右上に宝■元年と記しその左に3月18日と記してある。
この安王丸とは室町時代、鎌倉公方・足利持氏の子で
持氏は幕府と争い吉元(1442)年4月16日に結城城は落城。
兄春王丸とともに安王丸も捕らえられ、京都へ護送される途中、垂井の金蓮寺で斬首されたとされる。
安王丸11歳。墓は垂井の金蓮寺にあるという。
富山前田藩作事奉行・高沢昌忠はこの古碑を考証し、
宝■元年は宝徳元年(1449)であり足利氏由来の墓石であるとして
藩主の許可を得て大法寺に発掘の由来を記した笠石台石を設えて大法寺墓所に安置した。
後に石造物の研究家、京田良志氏がこの墓石を鑑定し、時代は更に遡り年号は貞和2年(1346)であるとした。
今年に入って富山城三ノ丸が発掘され来年も更に発掘が継続されるという。
富山は先の大戦で全壊し多くの史料も失われたが少しずつ歴史が見えてきている。
添付した写真は戦災で焼ける前の大法寺参道の景観である。

大法寺参道S

姫君の日常

カテゴリー:歴史探訪

殿様の家姫の日常を記した記事が、桂書房が採集した明治末の頃の新聞に乗っていました。

起床 午前6時
朝飯 午前7時  一汁
間食 午前10時 菓子
午飯  12時 一汁一菜 (焼魚又は煮魚)
間食 午後3時  菓子
夕飯 午後5時 一汁一菜 (焼魚又は煮魚)
御両親への伺候 (朝食前と就眠前)
入浴 冬季は3日に一回。夏季は毎日。
衣服 冬物は一月に一着取換え。夏物は五日ごとに取換え。
夜具 夏冬ともに大小にて一重。
運動 室内のみ。庭園に出るのは稀れ。
学習 4歳より手習い。成長するごとに読書。琴。花、その他技芸を習う。
居室 子女誕生とともに屋敷の四・五間数を定め、世帯道具を新調。
侍人 付人一名。乳母二名。

(一部添削してあります)

怪談紀行

カテゴリー:新刊案内 歴史探訪

桂書房編集部が足掛け4年かけ、県内に取材した「越中怪談紀行」がようやく出版されました。

 

この本の凄いところは消えつつあった伝説を

もう一度現代に引き戻したところにあるといえます。

例えば「神通川の川鰈(かわかれい)」は、

かつて神通川に大きな鰈が住み着いていて、

この鰈が反転して白い腹を見せると

船橋を渡っていた旅人が目がくらんで神通川に落ちたという伝説です。

この伝説は地元に今も残っています。

 

この川鰈は「ヌマカレイ」の別名だそうで、

このカレイは体長が40センチ余りの淡水に住む種とか。

恐らく神通川に大きなヌマカレイが生息していたのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

越嵐登場!!

カテゴリー:歴史探訪

ついに出来がってきました。

分厚い!!

越嵐

本格的な越中の歴史小説です。

読み応えありますね。

もうすぐ書店に並ぶと思います。

大道城主に伝わった能面

カテゴリー:歴史探訪

桂書房では「大道城主に伝わった能面」について調べています。

高岡市にある称念寺には能面が伝来しています。

この能面は、古くは「修験と山田温泉」に関連するのではないかと仮説を立てています。

その経緯を纏めました。

称念寺の由緒ですが、山号は立鷹山(りょうおうざん)。

浄土真宗本願寺派(元は真言宗)。旧八尾町足谷に寺がありました。

古絵図(県立図書館蔵)には称念寺屋敷が残っています。

立山曼荼羅が伝来し立山信仰と関連が深いとされます。

 

この能面は江戸時代初期に打たれた面です。

製作 寛文7年(1667)江戸時代(富山藩が出来た頃)

作者 一色左京大夫義春です。

能面はいつの頃か「大道城主」から称念寺が貰ったとされています。

 

大道城とは旧八尾と旧山田村境にあった中世城郭です。

『婦負郡史』によれば,

「大道城主」との由緒を伝える「鈴木権ノ守」が旧山田村数納(sunou)に在住していました。

数納は現在は廃村となっています。

そして数納には、現在は砺波にある千光寺の故地であるとされます。

『山田村史』によれば、千光寺は戦国時代に砺波の現在地に移転したとされます。

数納の旧中村家の屋号は「寺」でここが「千光寺元屋敷」でした。

 

詳細は「廃村の記憶」(桂書房刊)を参照下さい。

 

では、なぜ数納に能面があったのでしょうか?

考えられることは江戸時代の初めまで数納で能が舞われていたのでしょう。

 

ところで山田温泉は金剛堂山の修験信仰と関連しているとされます。

近くには宿坊という村もあります。

修験者は金剛堂山に登る際、山田の宿坊を出て山田温泉で身を清め、禅定道を金剛堂山に至ったとされます。

この禅定道沿いに数納がありました。

 

ここからが推論ですが、

伝承から千光寺が数納にあったとして、

金剛堂山信仰と千光寺開祖法道上人の金剛摩尼の法力とは、なんらかの関連があったと思われます。

そして能は千光寺に伝承されてきたものと考えます。

千光寺移転後は大道城主であった鈴木家に伝承されてきたのではないでしょうか。

ご意見を頂きたいと思います。