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過去の記事: 2015.6月

新刊案内「越中怪談紀行」

カテゴリー:新刊案内

桂書房では『越中怪談紀行』を編纂しています。

8月に出版予定です。

これに関連して、

富山家中滝川左膳屋敷には「焼き味噌」を禁ずという家訓があったと『越中奇談集』には書いてあります。

この滝川家は戦国武将、滝川一益を先祖に持ち、その一族が前田家に仕官したものと思われます。

富山藩の滝川家は富山城大手に屋敷を構えていました。

なぜ滝川家では焼き味噌がダメなのかというと、滝川家でこれを作ると座敷に怪しい人が出るとの事です。

 

ところで「焼き味噌」について調べてみると、「湯漬け」つまりご飯に湯をかけて食べるときに薬味として「焼き味噌」を添えていたようです。

この「湯漬け」は、戦国時代、出陣する前に湯漬けを食べたというのが物語にはよく登場します。

織田信長が桶狭間に出陣する際「湯漬け」を食したという話が有名です。

金沢百万石祭り

カテゴリー:金沢

金沢百万石祭りの尾山神社の神官の行列の行列です。

絵になっていますね。

金沢百万石祭り

金沢市は金沢城がシンボルです。

金沢城といえば兼六園や石川門が有名ですが、河北門、いもり堀の復元、そして橋爪門と玉泉院丸が次々復元・整備されています。

金沢城石川門

「金沢城復元基本方針検討委員会」が平成17年3月にまとめた「沢城復元基本方針検討委員会報告書」によれば、その基本方針として

「沢城は本県の歴史・文化・伝統を継承する「象徴」であり、全国へ情報発信する「源」である。

今後とも特別名勝の兼六園と一体となった県民共有の歴史的文化遺産として、後世に評価されるような取り組みが必要である。」とあります。

金沢城はきちんとした発掘調査の上復元されています。

特に玉泉院丸が復元されたことで金沢城を巡る動線が良くなりました。

「金沢城を世界遺産に」という意気込みもかつて聞かれましたが、復興費用はどれだけかかったのでしょう?

数十億円を投じたようですが北陸新幹線開通により十分な対価が得られるように思います。

 

 

福光麻布

カテゴリー:その他

富山県南砺市の旧福光町は「福光麻布(あさぬの)」の産地でした。

昭和天皇の大喪の礼には福光麻布が調達されました。

しかし、これを最後として現在では廃業となり調達できません。

 

そこで桂書房では「福光麻布」製造工程を記録保存するプロジェクトを立上げ、来年をめどに『麻布手仕事図鑑』発刊を目指し編集に取り掛かりました。

福光麻布は「いざり機(はた)」で織られる全国でも珍しい製法でしたが、廃業とともにその製法も失われました。

幸い、いざり機は一台残っていますが、製造工程を復元するのは極めて難しいのです。

それは福光麻布は農家の副業で、かつ分業体制で行われていたので廃業とともにすべてが失われたのです。

福光麻布の起源は、平安遷都の延暦13年〈794)勅命による御霊場建立のため進物用として織られたとされます。

 

将来、復活される場合、その基本資料として制作できればと思っています。

 

となみ野

カテゴリー:となみ野探検

今後、砺波平野を題材とした本が次々出版されます。

 

ここではあえて「となみ野」と書かせてもらいます。

「となみ野」とはどのような地域だったのか?

 

金沢は百万石と称された前田家の本拠です。

しかし百万石文化が最も色濃く残っているのが富山県南砺市だと思います。

米の生産も百万石のうち砺波平野では25万石を産しました。

 

すこし歴史を振り返ると砺波平野は戦国時代「越中一向一揆」の拠点でした。

文明13年(1481)田屋川原の合戦で石黒家宗家が滅び、以来100年間以上、加賀一向一揆よりも長く、砺波郡は「百姓の持ちたる国」だったのです。

 

それを読み解いたのが「勝興寺と越中一向一揆」(久保尚文著)です。

すでに第6版を重ねました。

 

井波瑞泉寺や城端善徳寺が巨大伽藍を構えています。

井波瑞泉寺に関しては「年表で見る井波瑞泉寺」(千秋謙治編)を参照下さい。

 

注目すべきは城端善徳寺です。

天正8年に金沢御坊、翌年には瑞泉寺・勝興寺が織田方に敗れ、寺は焼けましたが城端善徳寺は勝ち抜きました。

一味神水の鉢

(南砺市の一味神水の鉢 一向一揆由来の鉢か?)

 

寺は一度も火災にあわず、寺には古文書や什器など1万点以上の宝物を所有しています。

善徳寺を率いたのは空勝法師。

一説には、身の丈7尺(210㎝)で強力無双。弓・馬・剣術に優れた武人。

大坂石山本願寺にも門徒を率いて参陣。

善徳寺には教如から下された軍配が伝わります。

教如は空勝に強い信頼を置きました。

文禄年間、教如が本願寺門主を退隠させられたとき城端善徳寺を訪れ、空勝と悲哀の涙に暮れたとされます。

砺波平野に東本願寺系寺院が圧倒的なのはそのような背景があるからです。

 

「越中一向一揆」がその勢力を保ったまま江戸時代に入ります。

加賀藩は村々の経営は十村に任せ百姓には一切干渉しませんでした。

そして明治に入り砺波の百姓の力が爆発します。

それが「アズマダチ」です。

元来、加賀藩の武家屋敷がモデル。

この家を建てる事が「砺波の男」のロマンでした。

となみ野は繁栄の頂点に達しました。

 

ぜひ「となみ野」を訪ねてみて下さい。

新幹線でお越しの方は、城端線または金沢駅からバスが出ています。

 

 

 

新刊案内「石黒党と湯浅党」

カテゴリー:新刊案内

「石黒党と湯浅党」ですが、7月21日発刊予定です。

 

中世の頃ですが、越中国砺波郡に石黒党がありました。

また、紀伊国有田郡には湯浅党がありました。

現在富山県南砺市の旧福光町には紀伊国由来の湯浅を姓に持つ家が多くあります。

有田郡には湯浅家は数少ないのに、なぜ砺波郡に湯浅家が存続しているのか?

それは何故なのか?

砺波野

ヒントはこの写真の中に隠されています。

本著は歴史の動乱の中を福光で生き抜いた石黒党と湯浅党を追います。