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カテゴリー: お城てくてく物語

佐伯哲也のお城てくてく物語 第13回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第13回 落城後の捕虜の処刑

 戦国時代と言えば、豊臣秀吉の出世街道のように、明るく、希望に満ち溢れていた時代と思われている。確かにその一面も存在するが、人命が粗末に扱われ、残虐な行為が日常的に実施されていた。捕虜の処刑もそれを雄弁に物語っている。
 捕虜の処刑方法が判明するのが、天正9年(1581)前田利家の棚木城(石川県鳳珠郡能登町)攻めである。海に突き出た棚木城上杉方が籠城する棚木城を同年5月22日落城させた利家は、生け捕った捕虜を一人も残さず処刑している。その処刑方法とは、七尾城下の赤坂で火炙りにするのである。見せしめのため城下町の外れで処刑し、それに見物人が群がる、といったお決まりのワンシーンが目に浮かぶ。さらに利家は釜炒りの刑も命じている。真っ赤に焼けた大釜に、生きたまま人を入れるのである。地獄絵の光景が繰り広げられたことであろう。このとき、釜煎り用の大釜が無かったらしく、先に命じた鉄砲製作を中断しても、大釜鋳造を命じている。そこには極刑を実行するにあたり、微塵の迷いも見せない利家の姿を見ることができる。
 もっとも利家にも事情があり、中途半端な処刑方法が織田信長の耳に入ったら、国主としての責任が問われると嘆いている。利家としても辛い決断だったのかもしれない。そこには豊臣家五大老時代の温厚篤実利家ではなく、常に信長の機嫌を損ねまいとする、意外な利家の姿を目にすることができる。利家は天正4年(1576)の小丸城(福井県越前市)主時代に、越前一向一揆に対して同様の処刑を行っている。どうやら火炙り・釜煎りの刑は珍しくなかったようである。
運よく処刑されなかった捕虜にも、悲惨な末路が待っていた。永禄9年(1566)上杉謙信の猛攻により落城した小田城(茨城県)では、生け捕った捕虜一人につき20~30銭(約二千~三千円)で人身売買が行われていた。これは謙信も認めていたので、一般的な行為だったのであろう。捕虜は人として扱われず、牛馬のように酷使され、弊履のように捨てられたことであろう。
 これが戦国時代の知られざる実態である。一旦合戦が始まれば人権など無きに等しく、人は鬼と化し、残虐な行為を平気で行った。だから戦争は絶対に行ってはならないのである。戦争に正義の戦争など存在しない。

 

 

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 「佐伯哲也のお城てくてく物語」が始まって1年が経過しました。読者のみなさん、どうでしょうか。こうしたらいい、ああしたらいい、という意見はありますでしょうか。また、○○城のこんなことが聞きたい、○○城は別の考え方を持っている、といった質問・反対意見も大歓迎です。あて先は桂書房HPのお問い合わせフォーム「ご質問・ご意見」です。どしどしお寄せください。

佐伯哲也

佐伯哲也のお城てくてく物語 第12回

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佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第12回 最高のもてなしは風呂?

 ほんの一部の上流階級者を除いては、戦国時代の移動手段は、ほぼ徒歩である。一日も歩けば汗と埃にまみれていたことであろう。雨降りでの移動となれば、ビショビショのグチャグチャとなり、最悪のコンディションとなる。
 こんな状況だから、旅人にとって一日の終わりに風呂に入って汗を流し、疲れをいやすのは至福の一時だったに違いない。しかし当時の風呂は非常に珍しく、領主の居館や寺院などにしか存在しなかった。このため戦国時代の旅人の多くは、風呂について特記している。
 風呂使用の一例を記す。京都から越後に下向する歌人・冷泉為広は延徳3年(1491)新川郡守護代椎名氏の居館(魚津市 後の魚津城)で宿泊する。日記の中で「風呂アリ」と特記していることから存在そのものが珍しく、旅塵にまみれた為広にとって、とてもありがたい存在だったのであろう。魚津城絵図
 室町時代の禅僧・万里集九は延徳元年(1489)越中から飛騨に入り、安国寺(高山市)で宿泊し、風呂のもてなしを受けている。集九は日記に「行旅の楽しみ、浴場にしくは無し。満身の塵垢、泥裳を脱す」と記述する。久々に風呂を使ったのであろう、垢まみれ・泥まみれの状態から脱出し、至福の一時を過ごしたことを述べている。やはり旅人にとって風呂は最高の癒しの場だったのである。
 このときの風呂とはどのような施設だったのか。大量の湯を沸かす技術が無い当時にとって今のような大浴場などとんでもないことで、多くは蒸し風呂、すなわちサウナのような施設だった。『慕帰絵』という絵巻物に描かれた風呂は、大釜で湯を焚き、その湯気を浴室に送っている。つまりサウナだったのである。一乗谷朝倉氏遺跡で発掘された風呂もこのタイプだったと考えられる。集九も為広もサウナに入ったのであろうか。
 江戸時代に入ると、大名屋敷に設けられた風呂は、浴槽に湯を張り、一般的な施設となる。湯加減について身分の関係上、お殿様がじかに湯番に命令することはできず、まず御家老に伝えられ、そして湯番に伝えられた。従ってお殿様が自由自在に温度調節することはできなかったのである。とても寒かったと不満を漏らすお殿様もいた。お殿様にとって風呂は、必ずしも癒しの場ではなかったようである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第11回

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第11回 加賀百姓共和国はウソ

 長享2年(1488)加賀守護富樫正親を居城の高尾城(石川県金沢市)で滅亡させた加賀一向一揆は「百姓ノ持タル国」と言われるように加賀百姓共和国を樹立した、とされている。しかし、現実は全く違っていた。
 まず加賀一向一揆は、正親の大伯父で元加賀守護の泰高を総大将に推戴する。つまり名目上、守護対元守護という構図になったわけである。当時の一揆軍は脆弱で、守護を単独で攻め滅ぼすなど到底不可能だったのである。
 正親を滅ぼすことに成功した一揆軍だが、これで加賀守護そのものが廃絶したわけではない。泰高が守護に再任され、以降守護職は泰高の孫の稙泰に受け継がれていく。なんのことはない、正親が泰高に替わっただけで、加賀は室町幕府体制によって支配され続けるのである。
 筆者が思う共和国とは、各集落から代議員(代表者)を1人選出し、その代議員が一ヶ所に集まり議長を選出する。そして議長主導のもと一年間の国の運営について協議する。これが共和国と思う。確かに天文15年(1546)に設立された加賀一向一揆の拠点・金沢御堂(御坊)は、各集落から「旗本」と呼ばれる代表者を選出する。しかし、運営方針は全て金沢御堂が決定し、旗本は御堂の指示通りに動く家来でしかなかったのである。この運営は、天正8年織田軍進攻による金沢御堂陥落まで続く。従って加賀百姓共和国など、どこにも存在しなかったのである。
 挙句の果てに加賀国支配権を巡って、金沢御堂と本願寺から派遣された家臣(内衆)が内部闘争を繰り広げる始末である。あまりにも傍若無人な振る舞いをする内衆を、本願寺顕如自ら処罰する有様だった。百姓共和国を夢見て立ちあがった領民たちは、醜い権力闘争に終始する一揆幹部達を、どのような思いで見つめていたのであろうか。
 高尾城は、富樫正親終焉の地として知られる。間違いではないが、単純ながら虎口と畝状空堀群を備えており、明らかに16世紀末の遺構である。恐らく天正8年織田軍加賀進攻に備えて一向一揆が構築し、金沢御堂の出城としての役割を担っていたと考えられる。同時に、一揆軍は高度な築城技術を保持していたことも判明する。好むと好まざるとにかかわらず。もはや一揆軍は百姓集団ではなく、純然たる軍事集団だったのである。高尾城堀切

佐伯哲也のお城てくてく物語 第10回

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第10回 戦国時代の贈答品

 今から五百年前の戦国時代、七尾城(石川県)で京風文化を営んでいた能登守護畠山氏は、京都の室町将軍家や公家達と交流を重ね、多額の金品や贈答品を贈っている。その見返りとして、連歌の添削等を依頼した。

能登七尾城跡 贈答品の中に、海国能登ならではの海産物を多く贈っていることが、三条西実隆の日記『実隆公記』に詳細に記録されている。それは現代の中元・歳暮と全く変わらず、非常に興味深いものがある。今一度、畠山氏が贈った海産物の贈答品を見てみよう。
 七尾城から京までの道程は約十日間とされており、長期保存ができるものに限定される。従って塩漬けにされたブリ・タラ・シャケ・タイ・ハモが贈られている。シャケは現在も「荒巻シャケ」の名で、歳暮品として扱われている。種類は不明だが、酢で〆た魚も贈られたようである。その中にはサバも交じっており、まさにシメサバとして贈られたのである。
 海苔や藻づく・クラゲも贈られ、海苔などは朝食に欠かせない一品だったことであろう。クラゲが戦国期から食べられていたとは驚きである。
 特に多く贈られたのは、コノワタ(ナマコの塩辛)・セワタ(シャケの塩辛)・ウルカ(アユの塩辛)といった酒の肴である。現在も高級珍味として重宝されている。実隆はコノワタが大好物だったらしく、年に6回も贈ってもらっている年がある。享禄4年(1532)の時などは、日記に「余酔終日散々」と終日コノワタを肴に酒を飲み続け、泥酔したと書いている。大喜びしながら痛飲している実隆の様子が見えるようである。
 この他、アメフラシやスナメリも贈っている。アメフラシはナマコと同じように調理したのであろうか。戦国期の富山湾にイルカがいたことが判明している。スナメリではなく、イルカだったのかもしれない。
 海産物ではないが、輪島素麺を贈っている。輪島素麺は現在も地元の名産で、五百年前から名産だったことが判明して面白い。どのように入手したのであろうか、虎皮や天狗爪(サメの歯)やタツノオトシゴまで贈っている。
 以上が主な贈答品である。なんのことはない、現代とほぼ同じ贈答品であり、コノワタなどは酒の肴として五百年前から不動の位置にあったのである。戦国期も現代も、ノンベエの好みは変わらないと言えよう。

 

佐伯哲也のお城てくてく物語 第9回

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第9回 戦国時代のお化粧事情

 女性が美を競うのは、戦国時代も同じである。館跡を発掘すると驚くほど多種多様の化粧道具が出土する。ここでは庶民にいたるまで生活様式が判明している越前一乗谷遺跡を例にとり、戦国時代の化粧事情を見てみる。
 一乗谷で最も多く出土している化粧道具は、櫛である。素木のものや漆塗りのものなど様々である。シャンプーなど無かった当時、櫛で髪を梳くことで汚れを取っており、櫛払いもセットになって出土している。
一乗谷朝倉氏遺跡 簪(かんざし)も多く出土しているが、多くは飾りが少ない単純なものである。ロングヘアーだった当時の女性は、洗顔や食事のとき、邪魔になる髪を押さえつけるクリップのように使用したという。
 毛抜きは男女ともに必需品で眉毛を抜くために用いた。当時の化粧の重要ポイントは眉で、白粉で白く塗った上に、いかに美しく眉墨で眉を描くか、ここに細心の注意を払っている。毛抜きで眉毛を抜くなんて、ちょっと痛そうだが少しでも美しく見せようと、ガマンしていたのだろう。
 紅皿も多数出土している。紅花を粉末処理したものを、紅皿で水にとき、筆で唇に塗った。鏡は直径5~7㎝の銅製円鏡で、コンパクトな鏡である。柄がついていないことから携行用だったと考えられる。どこへ行くときでも持ち歩き、ヒマさえあれば化粧を直していたのであろうか。
 筆者がドンビキしたのはお歯黒道具である。男女とも黒く染めたが、特に結婚後の女性は必ず染めている。戦国期の女性を描いた絵図を見ても、歯を黒く染めたものが多い。歯が黒いとちょっと不気味な感じがする。
 お歯黒は、鉄錆と五倍子粉(ふしのこ)を合わせてつくる。あるイベントでお歯黒体験コーナーがあり、さすがに筆者は塗らなかったが、ちょっと舐めてみた。予想していたことだが、原料が鉄錆なので、錆臭くてたまらなかった。よくもまあ、こんなものを口の中に入れていたものだと感心したことを覚えている。結婚後の女性がお歯黒をしたのは、妊娠・出産によって鉄分が不足したためであろうか。健康サプリメントなど無い当時にとって、必要不可欠の化粧だったのかもしれない。
 世の中の男性は、女性がニッと笑った時、歯が真っ黒だったらドンビキするに決まっている。真っ白な歯が良いと思うのは筆者だけではあるまい。