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カテゴリー: お城てくてく物語

佐伯哲也のお城てくてく物語 第17回

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佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第17回 戦国時代の情報伝達施設

 戦国時代、戦いを勝利に導くために、詳細な情報をより早く・正確に伝達することは、重要だったことは言うまでもない。とはいうものの、電話等の通信手段が無かった当時、「詳細な情報」は、書状を書いて相手に届けるしかなかった。しかし、これでは情報を伝達するのに長時間を要し、運が悪ければ書状が敵軍に盗まれる可能性も存在する。従って書状より情報量は著しく減少するが、より早く・正確に伝わる方法を戦国人は考えていた。
 富山県内の山城において、情報伝達施設名称の伝承が残るのは、管見の限り、鐘・狼煙である。また、文献史料で確認できるのは、篝火である。従って戦国人が使用していた情報伝達施設(方法)は、鐘・狼煙・篝火だったと考えられる。この中で比較的多く城跡に残っているのが「鐘突堂」(カネツキドウ)という地名である。恐らく山城から山城へ伝える情報伝達施設として最もポピュラーな施設だったのであろう。狼煙は夜間は使用できず、篝火は日中は見えにくかったと考えられる。天候に左右されず、一日中使用できた鐘が多く使用されたのも当然であろう。
 鐘使用の好例を挙げる。山田川(富山市)沿いの丘陵に、鐘突堂の地名を残す城が、数珠繋ぎのように存在している。山田川流域は、守護代神保氏の金城湯池で、主城富崎城(婦中町)を筆頭に、長沢城・下瀬砦・高山城・小島城が存在し、鐘突堂の地名を残す。3~4㎞の間隔で各城が存在していることから、当時の鐘の可聴範囲は4㎞程度だったと考えられる。リレー方式で鐘を突き、城から城へ情報を伝達したのであろう。伝承によれば、鐘突堂は山城の高所に立っていたという。従って寺の鐘のような重量物ではなく、持ち運び可能な半鐘のようなものだったと考えられよう。
富崎城の鐘突堂 この情報伝達施設、味方にも伝わるが、同時に敵軍にも伝わった。このため敵軍に悪用される可能性も多分にあり、実際にそのようなケースも発生している。一例として、元亀3年(1572)6月15日夜中、上杉軍は白鳥城(富山県富山市)で到着の合図として篝火を上げた。これが運悪く敵軍の一向一揆の攻撃目標とされてしまい、一揆軍の猛攻に白鳥城は落城、上杉軍は全滅してしまう。やはり情報は味方だけにナイショで伝わるほうが良い、と思うのは筆者だけではあるまい。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第16回

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佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第16回 意外に早い城の完成日数

 よく聞かれる質問として、城の完成日数である。城は土木構造物であり、土木技術者でもある筆者も大いに興味が湧くところである。今回はこの質問に答えたい。
 大量の石垣・瓦や天守閣・殿舎建造物を必要とした近世城郭は、とにかく長期間の日数を必要とした。有名な豊臣大阪城(大阪府)が完成したのは、秀吉の死から約1年後の慶長4年(1599)春のことである。つまり築城から完成まで16年を要したのである。金沢城(石川県)が完成したのは2代目前田利長の時代で、27年の歳月を必要とした。高山城(岐阜県)は13年を要しており、完成したのは2代目金森可重の代である。つまり築城者の代では完成せず、次代までかかっていたのである。
 ここに常識を破った人物がいる。前田家二代利長である。高岡城(高岡市)本丸の工事は、通常だと380日間かかるのだが、わずか137日間で完成させている。これを可能にするには、約2万人の人夫を一日13時間、一日の休日もなく働かせて漸く完成するのである。異常なまでの利長の執念であり、隠居した利長が、依然として実権を握っていた証拠にもなろう。高岡城(高岡市)の水堀
 一方、臨時城郭であり、使い捨て城郭でもあった山城は、極めて短期間で完成している。上杉景勝が築城した荒戸城(新潟県)は二週間で完成していることが、一時史料により判明している。この他、朝倉軍が築城した長比城(滋賀県)も約10日間で完成している。
 天正12年(1584)有名な佐々成政の末森城攻めで、成政が本陣として使用した坪山砦に至っては、わずか3日間で完成させている。さすがに完璧な完成ではなく、各所に未施工部分が残っており、必要最小限の加工に留まっている。それが返って緊張した現場の臨場感が伝わってくる。本陣の施工は後回しにして、一刻も早く末森城を落としたい、という成政の悲痛にも似た思いがヒシヒシと伝わってくるようだ。
 このように山城(居城等拠点城郭は除く)は、10日間程度で完成していることが判明し、恐らく大抵の山城は1ヶ月以内で完成していたのであろう。
 ただし、そこに存在していた建物は極めて簡素で小屋程度でしかなかった。使い捨ての城に御殿を建てる必要性が無いからである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第15回

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第15回 哀れな越前一向一揆の末路

 かつては越前一国を支配し、生神様として崇められていた越前一向一揆の坊主達だが、その末路は哀れとしか言いようがない。
 天正2年(1574)8月、一向一揆は織田信長の越前進攻に備えるため、国境の木の芽峠城塞群(福井県)に、専修寺住職の賢会を城主として配置した。
木の芽峠城塞群の主城・鉢伏山城 賢会が籠城中に加賀諸江坊(恐らく弟)に送った書状は全部で13通が現存しており、籠城生活を知る生の声として貴重な資料となっている。まず賢会は、初めて着用した具足の重さに驚いている。また、寝起きする小屋は雨漏りがしており、修理することもできない。さらに守備範囲も広く籠城生活は困難と泣き言を述べている。何とも心許ない坊主達である。城主の居所が小屋程度だったことには驚かされる。
 一般住民の心は、既に一向一揆から離れていた。賢会は山麓の住民に軍資金を調達に行くと住民は証文を書いてほしいと要求する。素直に差し出すものと思っていた賢会はこの態度に激怒し、諸江坊に宛てた書状に「左様ニそさう(粗相)ニめされ候や、我々ハ捨物候哉」と自暴自棄な言葉を述べ、地元住民には「うつけたる事のあほうか」と聖職者にあるまじき罵詈雑言を述べている。賢会は憎悪を剝き出しにしたこの書状が、450年後に大衆の面前に晒されるとは夢にも思っていなかったことであろう。
 10月、重大事件が起きる。守備兵の大半が逃亡してしまったのである。この有様に賢会は諸江坊に「我々の首を切たる程の事者不及申候」「拙者ハ腹を切迄候」と嘆いている。残った守備兵は百人程度で、木の芽峠城塞群4城で割れば、1城あたりわずか25人となる。これで防戦できるはずがなく、賢会が途方に暮れたのも当然であろう。
 こんな状況で信長の大軍に対抗できるはずがなく、翌天正3年8月、わずか1日の攻防で木の芽峠城塞群等一揆方の城郭は総崩れとなり、賢会をはじめとする一揆軍幹部たちは悉く捕らえられ、首を刎ねられている。刎ねたのは一揆方の朝倉景健で、景健は賢会等の首を携えて信長に赦免を願い出るが、勿論許されず、即刻切腹させられている。
 こうして一揆軍の幹部全員は、かつての同僚か地元住民に首を刎ねられている。生神様の、あまりにも哀れな末路といえよう。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第14回

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第14回 瓦は貴重品

 「瓦礫」という言葉もあるように、屋根を葺く瓦は無価値品のように扱われている。しかし戦国時代の瓦は貴重品だった。特に織田・豊臣政権の城郭では新政権の権力の象徴として瓦は必要不可欠のアイテムだった。
 北陸の在地領主の城郭では瓦の使用は一切認めらない。前述の織豊系城郭でも使用例はほんの僅かである。天正3年(1575)佐々成政が築城した小丸城(福井県)で使用した瓦は、現地生産もされていたが、それでは足りず、明智光秀の居城・坂本城(滋賀県)や細川藤孝の居城・勝龍寺城(京都府)からはるばる運んできたことが判明している。小丸城(福井県)大津から塩津までは琵琶湖の水運を利用できるが、あとは山岳地帯で、木の芽峠の難路もある。織田信長の厳命を厳守するため、汗を流しながら大八車に乗せた瓦を必死で運ぶ大勢の人々の姿が目に浮かぶ。貴重品だった瓦は何度もリサイクルして使用されたのであり、使い捨てではなかったのである。
 富山県の近世城郭である富山城(富山市)は当然瓦を使用していたが、使用されたのは慶長10年(1605)からであり、築城から60年後のことである。
 高岡城(高岡市)で瓦が使用されていたのか詳らかにできない。発掘調査で瓦が出土しなかったことから、仮に使用していたとしても、ごく一部の範囲だったのであろう。築城時(慶長14年)においても瓦の使用はきわめて限定的で、広く一般的に使用されたのは、江戸時代に入ってからであろう。
 北陸で瓦が普及しなかった理由の一つとして、寒冷地・豪雪地帯という気候が災いし、瓦が割れてしまうからと言われている。福井県では、北乃庄城や東郷槙山城(福井市)では石瓦を使用しているが、これも破損防止のためと言われている。丸岡城天守閣は現在は石瓦を使用しているが、当初は杮葺きだったことが判明している。
 築城当初の金沢城では土瓦を使用していた。鉛瓦に変わったのは、あまりにも破損する土瓦が多すぎたからであろう。ちなみにこの鉛瓦、合戦時、弾丸の材料である鉛の備蓄材とも言われていた。しかし弾丸の鉛としては粗悪品で役に立たないそうである。白く輝くため装飾用と、破損防止用として使用されたと考えられる。それもそうであろう、使用されたのは平和な江戸期になってからである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第13回

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第13回 落城後の捕虜の処刑

 戦国時代と言えば、豊臣秀吉の出世街道のように、明るく、希望に満ち溢れていた時代と思われている。確かにその一面も存在するが、人命が粗末に扱われ、残虐な行為が日常的に実施されていた。捕虜の処刑もそれを雄弁に物語っている。
 捕虜の処刑方法が判明するのが、天正9年(1581)前田利家の棚木城(石川県鳳珠郡能登町)攻めである。海に突き出た棚木城上杉方が籠城する棚木城を同年5月22日落城させた利家は、生け捕った捕虜を一人も残さず処刑している。その処刑方法とは、七尾城下の赤坂で火炙りにするのである。見せしめのため城下町の外れで処刑し、それに見物人が群がる、といったお決まりのワンシーンが目に浮かぶ。さらに利家は釜炒りの刑も命じている。真っ赤に焼けた大釜に、生きたまま人を入れるのである。地獄絵の光景が繰り広げられたことであろう。このとき、釜煎り用の大釜が無かったらしく、先に命じた鉄砲製作を中断しても、大釜鋳造を命じている。そこには極刑を実行するにあたり、微塵の迷いも見せない利家の姿を見ることができる。
 もっとも利家にも事情があり、中途半端な処刑方法が織田信長の耳に入ったら、国主としての責任が問われると嘆いている。利家としても辛い決断だったのかもしれない。そこには豊臣家五大老時代の温厚篤実利家ではなく、常に信長の機嫌を損ねまいとする、意外な利家の姿を目にすることができる。利家は天正4年(1576)の小丸城(福井県越前市)主時代に、越前一向一揆に対して同様の処刑を行っている。どうやら火炙り・釜煎りの刑は珍しくなかったようである。
運よく処刑されなかった捕虜にも、悲惨な末路が待っていた。永禄9年(1566)上杉謙信の猛攻により落城した小田城(茨城県)では、生け捕った捕虜一人につき20~30銭(約二千~三千円)で人身売買が行われていた。これは謙信も認めていたので、一般的な行為だったのであろう。捕虜は人として扱われず、牛馬のように酷使され、弊履のように捨てられたことであろう。
 これが戦国時代の知られざる実態である。一旦合戦が始まれば人権など無きに等しく、人は鬼と化し、残虐な行為を平気で行った。だから戦争は絶対に行ってはならないのである。戦争に正義の戦争など存在しない。

 

 

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