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越前・北ノ庄城の亡霊・3

カテゴリー:歴史探訪

北ノ庄の堀秀政屋敷跡とされるところは、北ノ庄城の足羽川対岸の足羽山山麓、現在の福井市西木田三丁目あたりに旧北陸道に面して築かれ、江戸時代には、堀町、堀小路町という町名となって残っていました。

堀秀政は、天正18年(1590)小田原の陣で没しました。

今も秀政が信仰したという「堀ノ宮」と称された白山神社が木田神社に移転して残っています。

長慶寺には墓もあります。

 

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堀秀政の墓

堀氏は、慶長3年(1598)、越後春日山に転封されるまで、二代13年間にわたって越前を領し足羽山山麓に居館を構えましたが、これは北ノ庄城を修築する間の一時的な屋敷だったのかどうかはよく判りません。

しかし堀秀政が北ノ庄城外に館を構えたことは、北ノ庄城には住まなかったこの証で、これは実に奇妙な事に見えます。

越嵐-北陸三国志

カテゴリー:新刊案内

本日の北日本新聞一面に「文化審議会は19日「加越国境の城塞郡及び道(切山城・松根城・小原越)」を国の史跡として指定するよう下村文科大臣に答申した。」という記事が載っていました。

天正12年から13年にかけて前田利家と佐々成政は国境沿いで対峙していました。

山中にはこれらの城の遺構が良く残っています。

松根城と切山城(加筆)

上の図は『柚木城と三ノ坂道』(金沢市教育委員会)より転載し加筆したものです。

 

ところで、桂書房では『越嵐ー北陸三国志』の発刊準備を進めています。

戦国時代の歴史読み物です。

概要は近々にお知らせします。

越前・北ノ庄城の亡霊・2

カテゴリー:歴史探訪

越前の北ノ庄城ですが、柴田勝家が滅亡した後、丹羽長秀が加賀・越前・若狭を領して123万石の大大名とりました。

しかし天正13年(1585)4月16日、51歳で没しています。

長秀は北ノ庄に在さず府中に居城したといわれます。

長秀の跡は、堀秀政が十八万石を領して北ノ庄城城主となりましたが、なぜか北ノ庄本丸には住みませんでした。

 

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堀町白山神社

どこに住んだかと言うと福井市西木田あたり。

ここに堀町とか堀小路とかいう地名が残っていました。

堀神社も木田神社に現存しています。

そして、どうも足羽山に城を構えていたようです。

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足羽山からの遠望

越前・北ノ庄城の亡霊・1

カテゴリー:歴史探訪

桂書房では『越中怪談紀行』を編纂中ですが、これには所載しない「北ノ庄城の亡霊」についてシリーズでブロクに掲載していきます。

 

戦国時代、織田信長の家臣で、猛将として天下にその名を轟かせた柴田勝家が最後に居城したのが越前の北ノ庄城、現在の福井城です。

北ノ庄城は、天正三年(一五七五)、越前を制圧した織田信長が北ノ庄に赴いた際、自ら縄張りした城で、城将として柴田勝家を置きました。

 

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福井城 惣構え

江戸時代の記録『越藩拾遺録』のなかに「北庄城地之事」として、「柴田勝家天正十一年四月廿四日生害アルハ、今ノ鳩之御門南之舛形之所、古ノ天守ノ跡也」とあります。

ここに柴田神社が造営されています。

この神社が建立された理由は「ここに奇怪なことが起こった」ので勝家の霊魂を杉田屋敷内に祭った祠が始まりといわれます。

 

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北ノ庄城 想像図

その奇怪なこととは、

4月24日に夜半勝家の亡霊が、馬に跨り九十九橋を渡って本丸に帰るという。

これを見た者は、この年に死ぬという伝説があり、北ノ庄本丸にあたる杉田屋敷を始め付近一帯の屋敷は夕刻の6時以降は雨戸を閉め、夜間の外出を控えました。

 

前田家 京都に巨大屋敷

カテゴリー:歴史探訪

6月18日北陸中日新聞に「前田家 京都に巨大屋敷」という記事が一面に載っていました。

京都 伏見城の前田利家の屋敷で2m四方の柱穴が7ヶ所見つかったという内容。

かつての調査でこの周辺から金箔瓦が大量に出土しているので「非常に豪華な屋敷」が建てられていたのではないかとしています。

 

この頃、前田領であった越中新川郡では「越中七 金山」と呼ばれた金山・銀山が採掘のピークを迎えていました。

かつて何があったのか?

歴史は面白いですね。