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佐伯哲也のお城てくてく物語 第15回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第15回 哀れな越前一向一揆の末路

 かつては越前一国を支配し、生神様として崇められていた越前一向一揆の坊主達だが、その末路は哀れとしか言いようがない。
 天正2年(1574)8月、一向一揆は織田信長の越前進攻に備えるため、国境の木の芽峠城塞群(福井県)に、専修寺住職の賢会を城主として配置した。
木の芽峠城塞群の主城・鉢伏山城 賢会が籠城中に加賀諸江坊(恐らく弟)に送った書状は全部で13通が現存しており、籠城生活を知る生の声として貴重な資料となっている。まず賢会は、初めて着用した具足の重さに驚いている。また、寝起きする小屋は雨漏りがしており、修理することもできない。さらに守備範囲も広く籠城生活は困難と泣き言を述べている。何とも心許ない坊主達である。城主の居所が小屋程度だったことには驚かされる。
 一般住民の心は、既に一向一揆から離れていた。賢会は山麓の住民に軍資金を調達に行くと住民は証文を書いてほしいと要求する。素直に差し出すものと思っていた賢会はこの態度に激怒し、諸江坊に宛てた書状に「左様ニそさう(粗相)ニめされ候や、我々ハ捨物候哉」と自暴自棄な言葉を述べ、地元住民には「うつけたる事のあほうか」と聖職者にあるまじき罵詈雑言を述べている。賢会は憎悪を剝き出しにしたこの書状が、450年後に大衆の面前に晒されるとは夢にも思っていなかったことであろう。
 10月、重大事件が起きる。守備兵の大半が逃亡してしまったのである。この有様に賢会は諸江坊に「我々の首を切たる程の事者不及申候」「拙者ハ腹を切迄候」と嘆いている。残った守備兵は百人程度で、木の芽峠城塞群4城で割れば、1城あたりわずか25人となる。これで防戦できるはずがなく、賢会が途方に暮れたのも当然であろう。
 こんな状況で信長の大軍に対抗できるはずがなく、翌天正3年8月、わずか1日の攻防で木の芽峠城塞群等一揆方の城郭は総崩れとなり、賢会をはじめとする一揆軍幹部たちは悉く捕らえられ、首を刎ねられている。刎ねたのは一揆方の朝倉景健で、景健は賢会等の首を携えて信長に赦免を願い出るが、勿論許されず、即刻切腹させられている。
 こうして一揆軍の幹部全員は、かつての同僚か地元住民に首を刎ねられている。生神様の、あまりにも哀れな末路といえよう。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第14回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第14回 瓦は貴重品

 「瓦礫」という言葉もあるように、屋根を葺く瓦は無価値品のように扱われている。しかし戦国時代の瓦は貴重品だった。特に織田・豊臣政権の城郭では新政権の権力の象徴として瓦は必要不可欠のアイテムだった。
 北陸の在地領主の城郭では瓦の使用は一切認めらない。前述の織豊系城郭でも使用例はほんの僅かである。天正3年(1575)佐々成政が築城した小丸城(福井県)で使用した瓦は、現地生産もされていたが、それでは足りず、明智光秀の居城・坂本城(滋賀県)や細川藤孝の居城・勝龍寺城(京都府)からはるばる運んできたことが判明している。小丸城(福井県)大津から塩津までは琵琶湖の水運を利用できるが、あとは山岳地帯で、木の芽峠の難路もある。織田信長の厳命を厳守するため、汗を流しながら大八車に乗せた瓦を必死で運ぶ大勢の人々の姿が目に浮かぶ。貴重品だった瓦は何度もリサイクルして使用されたのであり、使い捨てではなかったのである。
 富山県の近世城郭である富山城(富山市)は当然瓦を使用していたが、使用されたのは慶長10年(1605)からであり、築城から60年後のことである。
 高岡城(高岡市)で瓦が使用されていたのか詳らかにできない。発掘調査で瓦が出土しなかったことから、仮に使用していたとしても、ごく一部の範囲だったのであろう。築城時(慶長14年)においても瓦の使用はきわめて限定的で、広く一般的に使用されたのは、江戸時代に入ってからであろう。
 北陸で瓦が普及しなかった理由の一つとして、寒冷地・豪雪地帯という気候が災いし、瓦が割れてしまうからと言われている。福井県では、北乃庄城や東郷槙山城(福井市)では石瓦を使用しているが、これも破損防止のためと言われている。丸岡城天守閣は現在は石瓦を使用しているが、当初は杮葺きだったことが判明している。
 築城当初の金沢城では土瓦を使用していた。鉛瓦に変わったのは、あまりにも破損する土瓦が多すぎたからであろう。ちなみにこの鉛瓦、合戦時、弾丸の材料である鉛の備蓄材とも言われていた。しかし弾丸の鉛としては粗悪品で役に立たないそうである。白く輝くため装飾用と、破損防止用として使用されたと考えられる。それもそうであろう、使用されたのは平和な江戸期になってからである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第13回

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第13回 落城後の捕虜の処刑

 戦国時代と言えば、豊臣秀吉の出世街道のように、明るく、希望に満ち溢れていた時代と思われている。確かにその一面も存在するが、人命が粗末に扱われ、残虐な行為が日常的に実施されていた。捕虜の処刑もそれを雄弁に物語っている。
 捕虜の処刑方法が判明するのが、天正9年(1581)前田利家の棚木城(石川県鳳珠郡能登町)攻めである。海に突き出た棚木城上杉方が籠城する棚木城を同年5月22日落城させた利家は、生け捕った捕虜を一人も残さず処刑している。その処刑方法とは、七尾城下の赤坂で火炙りにするのである。見せしめのため城下町の外れで処刑し、それに見物人が群がる、といったお決まりのワンシーンが目に浮かぶ。さらに利家は釜炒りの刑も命じている。真っ赤に焼けた大釜に、生きたまま人を入れるのである。地獄絵の光景が繰り広げられたことであろう。このとき、釜煎り用の大釜が無かったらしく、先に命じた鉄砲製作を中断しても、大釜鋳造を命じている。そこには極刑を実行するにあたり、微塵の迷いも見せない利家の姿を見ることができる。
 もっとも利家にも事情があり、中途半端な処刑方法が織田信長の耳に入ったら、国主としての責任が問われると嘆いている。利家としても辛い決断だったのかもしれない。そこには豊臣家五大老時代の温厚篤実利家ではなく、常に信長の機嫌を損ねまいとする、意外な利家の姿を目にすることができる。利家は天正4年(1576)の小丸城(福井県越前市)主時代に、越前一向一揆に対して同様の処刑を行っている。どうやら火炙り・釜煎りの刑は珍しくなかったようである。
運よく処刑されなかった捕虜にも、悲惨な末路が待っていた。永禄9年(1566)上杉謙信の猛攻により落城した小田城(茨城県)では、生け捕った捕虜一人につき20~30銭(約二千~三千円)で人身売買が行われていた。これは謙信も認めていたので、一般的な行為だったのであろう。捕虜は人として扱われず、牛馬のように酷使され、弊履のように捨てられたことであろう。
 これが戦国時代の知られざる実態である。一旦合戦が始まれば人権など無きに等しく、人は鬼と化し、残虐な行為を平気で行った。だから戦争は絶対に行ってはならないのである。戦争に正義の戦争など存在しない。

 

 

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佐伯哲也

佐伯哲也のお城てくてく物語 第12回

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第12回 最高のもてなしは風呂?

 ほんの一部の上流階級者を除いては、戦国時代の移動手段は、ほぼ徒歩である。一日も歩けば汗と埃にまみれていたことであろう。雨降りでの移動となれば、ビショビショのグチャグチャとなり、最悪のコンディションとなる。
 こんな状況だから、旅人にとって一日の終わりに風呂に入って汗を流し、疲れをいやすのは至福の一時だったに違いない。しかし当時の風呂は非常に珍しく、領主の居館や寺院などにしか存在しなかった。このため戦国時代の旅人の多くは、風呂について特記している。
 風呂使用の一例を記す。京都から越後に下向する歌人・冷泉為広は延徳3年(1491)新川郡守護代椎名氏の居館(魚津市 後の魚津城)で宿泊する。日記の中で「風呂アリ」と特記していることから存在そのものが珍しく、旅塵にまみれた為広にとって、とてもありがたい存在だったのであろう。魚津城絵図
 室町時代の禅僧・万里集九は延徳元年(1489)越中から飛騨に入り、安国寺(高山市)で宿泊し、風呂のもてなしを受けている。集九は日記に「行旅の楽しみ、浴場にしくは無し。満身の塵垢、泥裳を脱す」と記述する。久々に風呂を使ったのであろう、垢まみれ・泥まみれの状態から脱出し、至福の一時を過ごしたことを述べている。やはり旅人にとって風呂は最高の癒しの場だったのである。
 このときの風呂とはどのような施設だったのか。大量の湯を沸かす技術が無い当時にとって今のような大浴場などとんでもないことで、多くは蒸し風呂、すなわちサウナのような施設だった。『慕帰絵』という絵巻物に描かれた風呂は、大釜で湯を焚き、その湯気を浴室に送っている。つまりサウナだったのである。一乗谷朝倉氏遺跡で発掘された風呂もこのタイプだったと考えられる。集九も為広もサウナに入ったのであろうか。
 江戸時代に入ると、大名屋敷に設けられた風呂は、浴槽に湯を張り、一般的な施設となる。湯加減について身分の関係上、お殿様がじかに湯番に命令することはできず、まず御家老に伝えられ、そして湯番に伝えられた。従ってお殿様が自由自在に温度調節することはできなかったのである。とても寒かったと不満を漏らすお殿様もいた。お殿様にとって風呂は、必ずしも癒しの場ではなかったようである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第11回

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第11回 加賀百姓共和国はウソ

 長享2年(1488)加賀守護富樫正親を居城の高尾城(石川県金沢市)で滅亡させた加賀一向一揆は「百姓ノ持タル国」と言われるように加賀百姓共和国を樹立した、とされている。しかし、現実は全く違っていた。
 まず加賀一向一揆は、正親の大伯父で元加賀守護の泰高を総大将に推戴する。つまり名目上、守護対元守護という構図になったわけである。当時の一揆軍は脆弱で、守護を単独で攻め滅ぼすなど到底不可能だったのである。
 正親を滅ぼすことに成功した一揆軍だが、これで加賀守護そのものが廃絶したわけではない。泰高が守護に再任され、以降守護職は泰高の孫の稙泰に受け継がれていく。なんのことはない、正親が泰高に替わっただけで、加賀は室町幕府体制によって支配され続けるのである。
 筆者が思う共和国とは、各集落から代議員(代表者)を1人選出し、その代議員が一ヶ所に集まり議長を選出する。そして議長主導のもと一年間の国の運営について協議する。これが共和国と思う。確かに天文15年(1546)に設立された加賀一向一揆の拠点・金沢御堂(御坊)は、各集落から「旗本」と呼ばれる代表者を選出する。しかし、運営方針は全て金沢御堂が決定し、旗本は御堂の指示通りに動く家来でしかなかったのである。この運営は、天正8年織田軍進攻による金沢御堂陥落まで続く。従って加賀百姓共和国など、どこにも存在しなかったのである。
 挙句の果てに加賀国支配権を巡って、金沢御堂と本願寺から派遣された家臣(内衆)が内部闘争を繰り広げる始末である。あまりにも傍若無人な振る舞いをする内衆を、本願寺顕如自ら処罰する有様だった。百姓共和国を夢見て立ちあがった領民たちは、醜い権力闘争に終始する一揆幹部達を、どのような思いで見つめていたのであろうか。
 高尾城は、富樫正親終焉の地として知られる。間違いではないが、単純ながら虎口と畝状空堀群を備えており、明らかに16世紀末の遺構である。恐らく天正8年織田軍加賀進攻に備えて一向一揆が構築し、金沢御堂の出城としての役割を担っていたと考えられる。同時に、一揆軍は高度な築城技術を保持していたことも判明する。好むと好まざるとにかかわらず。もはや一揆軍は百姓集団ではなく、純然たる軍事集団だったのである。高尾城堀切