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佐伯哲也のお城てくてく物語 第7回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第7回 越中城郭に天守閣は存在したか?

 近世城郭のシンボルといえば、なんといっても天守閣であろう。しかし、天守閣の建設には莫大な費用がかかり、多額の維持管理費は藩の財政を圧迫した。そして苦労の末に完成した天守閣は、平和な近世には無用の長物であり、存在価値はゼロに等しかった。逆にその存在は幕府から敵視されやすい危険建造物でもあった。従って天守閣は、様々な好条件が一致しないと、建設されなかったのであり、どの近世城郭にも存在したわけではない。
 富山県内の近世城郭で、天守閣が存在していた可能性が高いのは、高岡城(高岡市)と富山城(富山市)の二城に限定できる。高岡城の場合、本丸の北隅に天守閣があったと伝えられている。一応天守に相応しい場所で、仮に天守閣が存在していたら、彦根城(滋賀県)天守閣相当の規模となる。しかし、天守閣という重量建築物を支えるのに必要不可欠な石垣造りの天守台は存在せず、また、天守閣の存在を示す絵図や、文献史料も残されていない。伝承は残るものの、一切が不明なのである。一代限りの城主・前田利長の書状に書かれていないことから、存在していなかった可能性が高い。
 富山城の天守閣は、富山藩成立のとき、寛文元年(1660)幕府より天守台を石垣造りに改造し、天守閣を建てることが許可されている。しかし、だからといって天守閣建設が実行されたのか、すこぶる疑問である。
 最大の理由として、江戸期に描かれた数点の富山城絵図は、全て土造りの天守台として描いていることである。つまり石垣造りの天守台改修工事すら実行されなかったことが判明する。従って天守閣建設工事も実行されず、天守閣は存在していなかったと考えて良い。
 現在の富富山城天守台位置山城天守閣は、昭和29年に復興された模擬天守で、本丸の正門とも言うべき鉄門跡に立てられ、現在郷土博物館として使用されている。富山城天守閣の構造が全く不明だったため、犬山城(愛知県)と丸岡城(福井県)天守閣を参考にして再建されている。
 富山県立図書館には、富山城天守閣の図と称される絵図が現存するが、それは五層七重の豪壮な天守閣で、明らかに江戸城天守閣の絵図である。借金のカタマリだった富山藩には、到底実現不可能な天守閣である。それゆえに、憧れだけは一層強く、天守閣建設の夢だけは持っていたのかもしれない。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第6回

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第6回 越中最強の城は松倉城?

 越中には戦国時代、約4百の城が存在した。その中には難攻不落の名城として名高い城もたくさんある。その中で最強の城はどれだろうか。
 勿論知名度・要害度・個人的感覚によって「最強」の定義は違ってくる。ここでは公平をきたすため、どれだけ敵軍の攻撃を防いできたのか、という実績で決定したいと思う。松倉城(魚津市)
 実績だけで決めるなら、越中最強の城は、文句無し松倉城(魚津市)である。何しろ永禄12年(1569)から天正元年(1573)の4年間にわたって上杉謙信の猛攻に耐えてきたのである。しかし最後は陥落したのではなく、城主の椎名康胤は籠城戦が続けられなくなって降伏したのである。上杉謙信が本当に恐れ、てこずったのは松倉城と言えよう。
 松倉城は、その後も堅城ぶりを発揮し、天正十年(1582)撤退するまで上杉方の重要拠点として使用される。つまり、いずれも降伏・撤退で開城しているだけで、力攻めでの落城は記録されていないのである。これぞ「難攻不落の名城」といえよう。
 難攻不落の名城として有名なのが、増山城(砺波市)であろう。ただし、この城、案外落城回数が多く、確実なもので5回、不確かなものも含めると6回も落城している。重要度の高い城なので、攻められる回数が多いからと言えばそれまでだが、案外多く落城しているのには驚かされる。
 増山城の名を高らしめたのは、上杉謙信が永禄3年(1560)に攻めたときの有名なセリフ「増山之事、元来嶮難之地」であろう。謙信は「元来嶮難之地」である増山城を簡単に攻め落としたと豪語している。ただし、これは増山城が「元来嶮難之地」なのかどうか全くわからない茨城県の佐竹氏に宛てた書状に書いてあるので、謙信の相当な誇張が含まれていると考えて良い。
 ちなみに謙信は「嶮難之地」というセリフを栃木県の城でも使用している。宛先は、これも栃木県のことなと全くわからない京都の将軍家である。将軍家に対しても堅城を落とした名将ということをアピールしたかったのであろう。従って謙信の場合、「元来嶮難之地」という言葉は、難攻不落の堅城を攻め落とした名将、ということをアピールするための宣伝文句と言えるかもしれない。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第5回

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第5回 埋蔵金伝説はほぼウソ?

 全国の城には、掃いて捨てるほど多くの埋蔵金伝説が残るが、ほとんどウソといっても過言ではない。実績もそれを雄弁に物語っている。というのも今日まで約1万ヶ所の城で発掘調査が実施されてきたが、ただの1ヶ所も埋蔵金は出てこなかったからである。これでは埋蔵金伝説はほぼウソと言われても仕方なかろう。幻の白川郷帰雲城(岐阜県)の埋蔵金は、数百億円とも言われ、探し始めて60年以上経過しているが、見つかる気配すらない。興味は尽きないが、週刊誌向けのネタでしかなく、空しさすら感じる。
 そもそも論になってしまうが、中世城郭から大判小判が出る可能性は極めて少ない。というのも大判小判は、豊臣秀吉が天正15年(1587)貨幣制度を定めてから世の中に出回ったのであり、それまでは宋銭と呼ばれる中国貨幣の銅銭が流通貨幣として用いられていた。従って天正15年以降も存続していた城なら大判小判が出土する可能性は残る。ところがどっこい、富山県の中世城郭の約96%は天正13年以前に廃城になっているのである。これでは大判小判が出土するはずがない。
 「ほぼウソ」の裏返しは「少しはホント」である。チッポケな話だが、僅かながら確認されている実話を紹介したい。
 平成6年鳥越城(石川県)で発掘調査中、本丸から2.5㎝×1.9㎝、厚さ1.2mm、約10gの金片が出土した。柔らかく、小刀で切った痕跡が確認されたので、小さく切り取って軍資金として使用していたのであろう。金の相場は1g約7千円なので、7万円相当の金塊と言えよう。
 話は古くなるが、明治39年尾崎城(岐阜県高山市)で記念碑建立中、土中から宋銭約6万7千枚が出土している。これぞまさしく中世城郭からの埋蔵金発見の御手本のような事例である。尾崎城(岐阜県)宋銭は現在1枚約500円で取引されているので、約3350万円の価値に相当する。宋銭は銅銭なので古汚く、置き場所に困るだけで、とても筆者はほしいとは思わない。
 これが埋蔵金伝説の実態である。今後も見つかる可能性は低いが、仮に見つかったとして遺失物、つまり落し物扱いされるので、発見者は1割しか取得できない。このように不合理極まりない法律が、埋蔵金を発見できない一因になっているのかもしれない。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第4回

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第4回 織田軍は飛び道具がお好き?

 戦国中期の天文12年(1543)、ポルトガル人によって種子島に2挺の鉄砲が持ち込まれた。この鉄砲という飛び道具、「戦国」という時代の要請もあってアッという間に普及し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦には6万挺の鉄砲が集まったとされている。
 鉄砲を最も着目し、最も大々的に使用したのは周知の如く織田信長である。ただし、各地の小大名といえども早くから鉄砲の存在を知っており、必要性も痛感していた。永禄7年(1564)に、飛騨国高原郷の江馬輝盛が鉄砲を所持していたことに驚かされる。もっとも輝盛は鉄砲1挺を臣従の証として上杉謙信に贈答しただけであり、合戦の主要武器には程遠い存在だった。
 この鉄砲、殺人兵器として使用するには、弾薬が必要となる。火薬は国内生産できるが、弾の鉛は国内で採掘できず、全て外国からの輸入品だったというから驚かされる。切山城(石川県金沢市)から出土した鉛弾は、ベトナムのタイソントー鉱山で採掘された鉛だったことが判明している。信長が大量に鉄砲を使用できた要因の一つとして、海外と交易している堺港を支配下に置いたことが挙げられよう。
 信長は鉄砲だけでは飽き足らず、大砲という飛び道具を開発し、実際に使用していた。魚津城(魚津市)柴田勝家を主将とする北陸織田軍は天正10年(1582)魚津城(魚津市)を攻めているが、「大鉄砲」すなわち大砲を使用している。大砲使用の確実な事例として、北陸最古である。もっともこの大砲は不良品で、前田利家は兄安勝に修理を命じている。修理後、戦場に持ち込まれたのは6月1日で、二日後の6月3日に魚津城が落城していることを考えれば、ほとんど役立たずの大砲だったと言えよう。
 織田軍は更なる飛び道具を開発している。それは「中筒」で、天正9年棚木城(石川県能登町)攻めで3挺使用している。中筒とは人間が携行できるバズーカ砲のようなものであろう。本当に織田軍は飛び道具がお好きだったのである。
 大砲・中筒は共に城壁を打ち砕く兵器だったと考えられる。時代は既に槍・刀を振り回す時代ではなくなっていた。それに対応できない大名は、織田軍の好餌でしかなくなっていたのである。

佐伯哲也のお城てくてく物語 第3回

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第3回 敵前逃亡は当たり前?

 世の中は史上空前の城ブームである。特に山城の人気は絶大で、「城ガール」という造語すら生まれている。
この影響を受けて、テレビでも落城シーンを見ることが多くなった。燃え盛る紅蓮の炎の中で、城主が切腹する、といったお馴染みのシーンである。しかし実際は余程違っていたようである。というのもこのような落城は、史料上ほとんど確認できないからである。
城主が戦死して落城する確実な事例は、富山県の場合、魚津城(魚津市)でしか確認できない。天正10年(1582)織田軍に攻められた上杉軍は、魚津城内で城主以下12将全員が戦死しているのだから、まさしくテレビのような落城シーンだったのであろう。
 しかし、このような落城はごく稀で、他は責められる前に逃亡する、敵前逃亡が案外多かったようである。
 当時、敵前逃亡は「自落」(じらく。自ら城を捨てて逃亡し、落城してしまうこと)と称されており、案外多くの史料に登場する。中には富崎城(富山市)のように、自ら城に火を放って自落したケースもある。
 一例を挙げる。永禄3年(1560)神保長職が籠城する富山城(富山市)を上杉謙信が攻めると、長職は戦うことなく増山城(砺波市)へ退却する。そして謙信が増山城を攻めると、今度も長職は戦うことなく増山城を捨てて、身を隠している。つまり2度連続の敵前逃亡である。増山城(砺波市)ちなみにこのとき長職の重要支城だった守山城(高岡市)も敵前逃亡している。どうやら敵前逃亡は当たり前で、珍しくなかったようである。
 この敵前逃亡、卑怯な戦法と思われがちだが、負け戦の被害を必要最小限にとどめる効果的な戦法、という見方も可能である。事実、謙信帰国後、長職はどこからともなく舞い戻り、ある程度の領土回復に成功している。カシコイ戦法といえるのだ。
 ただし、捨てられた城兵達には悲惨な結末が待っていた。殺されるか、奴隷として働かされるか、どちらかであろう。城主にとって城兵は、大切な部下ではなく、単なる消耗品だったのかもしれない。